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2025年度第5回授業

 

        本はホントにおもしろい

 

 

荻野 アンナ(おぎの・あんな)先生

神奈川近代文学館館長・小説家・慶應義塾大学名誉教授

令和8年2月15日(日)14:00―16:00

横浜市立大学金沢八景キャンパス・シーガルホール(横浜市金沢区)

受講者60人(4年生21人、5年生28人、6年生11人)

 

(以下、授業要約)

――自己紹介に代えて

私は顔は外国人ですが中身は日本人です。タクシーに乗って行き先を告げると運転手さんに「日本語お上手ですね」とよく言われます。そんな時は「しゃべるのは得意ですけれども、書くのはむずかしいです」と片言の日本語でこたえるのです。すると「日本は長いんですか」と聞かれるから、「はい。60年以上になります」と。だって生まれてからずっといるのですから。外国人のふりをするのは私のひそかな楽しみのひとつです。

私は小説やエッセイを書いていますが、大学で長年フランス文学を教えていました。趣味は落語です。20年以上前に金原亭馬生師匠に入門して自分でも高座に上がるようになりました。落語はフランスにも研究者がいて「生きた言葉の芸術だ」と評価されています。

 

――「寿限無」にこめられた願い

最も短い小噺(こばなし)に「隣の空き地に囲いができたってよ」「へえ」というのがありますが、師匠はこれでも「長すぎる。『隣の』がいらない」と言うのです。理由を尋ねたら、聞いている人が「うちの隣には空き地なんかないけどなあ」と余計なことを考えるというのです。みなさん、国語の授業で余計な部分をそぎ落としたのがいい文章だと習うでしょう。落語も同じです。ただ落語の場合は余分なものをどんどん削って、代わりに無駄なばかばかしい話を加えておもしろおかしくしていくのです。

有名な「寿限無(じゅげむ)」はやたらと長い名前を持つ男の子の話です。お父さんは彼が生まれた時、名前に長生きと幸福を約束するあらゆる要素を盛り込みました。彼の名前は「寿限無、寿限無、五劫(ごこう)のすりきれ、海砂利水魚の、水行末・雲来末・風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの、長久命の長助」。

この名前には一つひとつ意味があります。「寿限無」はめでたいことが限りない。「五劫のすりきれ」の「劫」は、数百年に一度天女が空から降りてきて富士山より高い岩に衣の裾(すそ)が触れ、岩が少しずつ擦り減ってついになくなってしまう、それまでの時間が一劫。それが5回擦り切れるのですから、考えられないほど長い時間のことです。「海砂利水魚」というのは海底の小石や水中の魚が無数であることから、少年の命が無限であることです。つまり、長い名前には生まれた子どもが元気で長生きするようにという願いがこもっているのです。

この男の子がわんぱくに育ち、ある日友だちをポカリとなぐってたんこぶをこさえてしまう。なぐられた子は男の子のお母さんに言いつけに来るのですが、やり取りの中でその長い名前が繰り返されるうちに時間がたってこぶがひっこんでしまう、というのが噺のオチです。

 名前ではありませんが「世界一長い動詞」というのを考えたフランス人がいます。フランソワ・ラブレーという人で、私はこの人のことを研究しています。その動詞は

morrambouzevengouzequoquemorguatasacbacguevezinemaffresser

と書きますが、ただ単に「なぐる」という意味なのです。ある人の訳では「ぽかぽかどかどかぴちゃぴちゃめりめりごりごりごつごつなぐる」となっています。別の人の訳では「びちびちぐそぐそすかすかびんびんばかばかさくさくばぐばぐでずでずぐちゃぐちゃなぐる」です。みなさん「あれっ」と思いませんか。たとえば英語を日本語に訳すときはだれが訳しても同じにならなきゃいけないと習いますよね。ところが、この動詞の訳は同じじゃなくてもよい、どうにでも訳せるのです。4世紀のギリシアの劇にもアルファベットを200使った架空の料理の名前がでてきます。人間がおもしろいと考えることは古今東西同じなのですね。

 

――『星の王子さま』が教えてくれるもの

 フランスの小説は人間を描くのが上手です。人間の真実を言い当てたような言葉、一生覚えておこうと思うようなキラッと光る言葉に出会うこともできます。

20世紀の作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリに『星の王子さま』という作品があります。絵本なので子どもも楽しめますが、大人も感動させます。私は小学2年の時に初めて読みました。その時は意味がわかりませんでしたが、大人になって読み直してようやく「なるほど」と思いました。

主人公の「ぼく」は飛行機の操縦士で砂漠に不時着して一人の不思議な少年と出会うところから話が始まります。その少年は、小さな星から来た王子さまでした。星には一本のバラが生えていましたが、このバラは大変わがままで風が冷たいから衝立(ついたて)を立てろ、などと王子を振り回します。バラと王子の関係はわがままな女の子とボーイフレンドの関係と似た感じです。王子はバラとのつきあいに疲れて旅に出ます。そしていろいろな星に住むいろいろな人物と出会います。

一番目の星には王様が住んでいて、王子が来たことを家来ができたと喜びますが、人に命令する以外のつきあい方を知りません。別の星には酔っ払いが住んでいて、酒ばかり飲んでしまう自分が恥ずかしくて、その恥ずかしさを忘れるためにお酒を飲む、ということを繰り返しています。「大人ってとってもおかしいんだなあ」と王子は思います。星めぐりは、子どもの純粋な心で大人を観察したときに見えてくるいろいろな歪(ゆが)みを表しているのです。

そして地球にやってきて5000本のバラが咲き誇る庭に出会います。それを見た王子は自分の星のバラは世界に一つだけのものではなく、ありふれたものだったのだと知ってショックを受けるのです。そこへ一匹のキツネが現れます。「一緒に遊んで」と頼む王子に、キツネは「仲良くないから」と断ります。キツネは、仲良くなるには方法があって、最初は互いに離れて座る、次に会う時は近づいて座る、また次はもっと近くに、というようにだんだん距離を縮めていくのだと説明します。そうやってお互いがかけがえのない存在になることが仲良くなることなのだと。キツネは昔話や伝説によく出てきますが、サン=テグジュペリは、人間に知恵を授ける存在として描いています。キツネの話を聞いて王子は「ほかにたくさんのバラがあろうとも意味はない。自分が水をかけて世話をした一本のバラはやはり特別なバラだったのだ」と悟るのです。

別れ際に、王子はキツネから秘密の言葉を教えられます。その言葉をきょうは私からみなさんにプレゼントします。それは「心で見なくちゃものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」という言葉です。サン=テグジュペリは人生の大事な一言を作品に込めたのです。

 

――ラブレーのおもしろさ

 私が研究しているラブレーは16世紀の人です。肖像画では変な帽子をかぶっていますが、それは医者だからです。修道士でもありました。医者として人間の体を救い、修道士として心も救った。そういう人生を送った人です。

彼の作品には風刺(ふうし)がいっぱい込められていて、宗教戦争前夜の暗い時代にカトリックとプロテスタント双方の行き過ぎを指摘しました。

最初に書いた作品は、巨人伝説をもとにした『パンタグリュエル物語』です。頭の固いソルボンヌ大学の神学部は目の上のたんこぶで、「ソルボンヌ野郎、ソルボンヌ下郎、ソルボンヌ阿呆、ソルボンヌトンチキ…」などと徹底的にののしります。今の世の中では人をののしってはいけないと言われますが、本当に頭の固い、どうしようもない連中がいたら思いっきりののしるのも精神の健康にはいいことです。みなさんも面と向かってののしることができなかったら、紙に書いてみるといいですよ。そうすれば気持ちがおもしろおかしく鎮(しず)まります。相手のことを観察してどこがおかしいのか指摘することで、嫌いなもの、世の中のおかしいと思うものともつきあっていくことができるのです。

ラブレーは次に、パンタグリュエルのお父さんを主人公にして『ガルガンチュア物語』を書きました。ガルガンチュアも巨人ですが、生まれ方が変わっています。産婆が間違った薬を使ったおかげでお母さんの左の耳から生まれたのです。5歳の時には「素敵で殿様らしいお尻の拭き方」を研究します。まず侍女のスカーフとか頭巾とかで拭いてみた。ネコでも拭いたら引っ掻かれて痛かった。キャベツやバラといった植物、シーツやカーテンといったインテリア用品でも拭いてみた。鳩やうさぎでも吹いてみた。ありとあらゆるものを試して何が一番良かったかというと、産毛の生えた鵞鳥(がちょう)のひなだったそうです。それにしてもいろいろなものをトイレットペーパー代わりにしてしまうという話は荒唐無稽ですね。侍女のスカーフを使うのは、今で言うならシャネルやエルメスでお尻を拭くようなものです。価値のあるものをとんでもないことに使ってしまうことで、世の中の価値がひっくり返って、あらゆるものが平等になるのです。このように価値観がひっくり返るおもしろさがこのエピソードにはあふれています。価値のあるものをひっくり返して考えるというのは健全な精神の表れなのです。

 さて、ガルガンチュアは大きくなって教育を受けるためにパリにやってきます。物見高いパリの人たちは巨人を一目見ようとわんさか集まってきます。ガルガンチュアは「お土産をやろう」と言って人々におしっこを引っかけます。それで洪水になって26418人が溺れ死にました。

荒唐無稽な話ばかりではありません。ガルガンチュアは隣の村の悪い王様と戦って勝つのですが、そこで活躍したジャン修道士に褒美として修道院を建ててあげます。その修道院の規則は「望むことをしなさい」という一つだけでした。「よい気質でしっかりと教育を受けすぐれた人たちと交わっている自由な人間なら、自ずから悪から遠ざかり徳へ向かうから」です。たとえば校則が「望むことをしなさい」のひとつだけだったら、生徒は自分が本当に何をやりたいのか真剣に考えますよね。それで自然といい方向に向かっていく。この僧院は規則でがんじがらめだった当時の修道院とは真逆のユートピアとして書かれています。

 

――落語とラブレー

 『パンタグリュエル』と『ガルガンチュア』に続く『第三の書』には日本の落語と同じネタが登場します。

古典落語に「しわい屋」という演目があります。「しわい」とはケチのことです。うなぎ屋から出る臭いだけをおかずにご飯を食べる男がいます。うなぎ屋は匂いを嗅ぎすぎると炭の減りが早くなると言って嗅ぎ賃を要求します。すると男は、お金をチャリチャリいわせて音だけ聞かせるという噺です。『第三の書』のほうは、焼肉の臭いでパンを食べたということになっています。焼肉屋が勘定を払うように迫ってけんかになり、仲介に入った道化師が公正な判決を下します。それはお金の音だけで支払うという方法でした。問題を解決したのは裁判官ではなく、一人の道化です。パンタグリュエルに言わせると、世の中で知恵があると言われるのは、財産や富を手にいれるいかなる機会も逃さない人間のことですが、そういう人間はの前では愚か者だというのです。それに対して世間のことを全く気にかけない、すべてに無頓着(むとんちゃく)な人間こそが神の前では賢いのだと。無頓着であるということ、富とか財産を気にかけない道化のような人間が賢いというのですね。

きょうは落語から始まって、『星の王子さま』経由でラブレーまで急ぎ足で見てきました。一つでも皆さんの心に残る言葉があれば幸いです。